まさか八幡太郎義家〜家族のルーツを探る③

母方のルーツは武士、でした。

お墓を確認した曽祖父の名前が、宮城図書館の歴史資料の幾つかに名前があることをもって、仙台藩士として実在したことも確認出来たのが前回までの私的調査。

幾つかの資料の中で、私本仙台藩士辞典や伊達世臣家譜、仙台藩家臣録などの資料から、本家の出自、その後の分家の成り立ちがおおよそ分かりました。

記述によると、仙台藩家臣となる前、三河国上野村に住んだ祖先の義有を基点に、14代後の景明が豊臣家に仕えて1,700石を給され、元和元年に伊達政宗に召し抱えられ400石を禄し、後に600石余になった・・のだとか。(よくもまぁ、ご存じで)

その景明の孫にあたる景俊が藩内で活躍したことで本家の地位も上がり、前後して4つの分家が生まれた経緯が書かれてます。確かに苔むした墓と墓誌から読み取れた中でも、寛永16年に亡くなった景俊の墓誌が一番イケイケな感じの記述でした。

本家が600石、分家は200石、150石、100石。どのような系図が明治維新を迎えた曽祖父まで伸びてるか今後調べたいところ。

しかし、さらに祖先まで遡ると、上野村に住んだ義有は足利尊氏の六男で、足利尊氏から5代前に遡ると源義家、通称八幡太郎義家・・となると、少々この系図が眉唾モノな気がしてきます。

源義家って・・平安時代後期の方。これって、皆が清和源氏の子孫だと主張した流行りの流れまんまじゃないかと。

なんとなく信用出来るのは曽祖父と同じ場所に墓誌がある景俊あたりからかな、、という気がします。それでも1600年代、江戸時代初期の武士ですから、想像以上に家族の歴史を遡れたことには驚きました。

■ 48. 家族のルーツを探る

今回は母方でしたので、次は父方もですが、今しばらくはサハリンの地に赴くのは難しそう。

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