中年が思い返す中学校時代

母と弟と一緒に、埼玉県に暮らす叔母に会いに行ってきました。自分が、中学2年から高校卒業するまでの5年間、北海道の田舎から出てきて家族で埼玉の郊外で暮らしました。

あまり変わらない東武線の駅、昔暮らした家を眺めて、叔母と近所の珈琲店でおしゃべり。盛り上がる75歳の姉妹を置いて、弟と二人で近所の小学校と中学校を散策。今も変わらず、でした。

中学2年で転校生としてやってきた中学校の校門、懐かしい。もう35年前の話だというのに断片的な思い出が蘇ります。

今の自分だったら、勉強も部活も人間関係も、もっと上手くやれそうな気はします。でも、そうしたうまく出来ない時間と経験が蓄積したからこそ、現在の自分に至るわけなので、やはり人生に必要な時間だったのだとも思います。

この校門前で好きだった女の子にもらったバレンタインのチョコ、心底驚いたし、あれは嬉しかったなぁ・・。そして1年後に卒業する時にはやっぱりフラれていたなぁ、とか懐古。

あれもこれも、人生の一大事だと大騒ぎした中学校時代の全てが今考えるとほぼどうでも良いことです。でも、やり直しができないからこそ、大事だったと言えます。

睡眠スコア80キープ〜Fitbitと暮らす

2020年5月以来、私の左手首に常時装着されているFitbit。(→Fitbit再装着

元々は毎日の歩数を測るのが主たる装着目的だったのですが、どこからか、毎晩の睡眠の質がきちんと80キープが出来ているか朝起きた時に確認するのが一番の関心ごとに。

睡眠時間 x 睡眠の質、の式のうち、睡眠時間はなかなかコンスタントに確保できてないので、質を上げてマネージしたいところ。寝る前の過ごし方のひと工夫で変わるのを体感もしています。(ストレッチとか瞑想も良さそう、毎回は出来ていないけど)

枕が変わる旅先では睡眠の質も下がりがち。旅先では飲酒も必要以上にしてしまうからかもしれません。夜の暑さも大敵なんですが、自宅ではエアコンを28度設定でつけっぱなしにすることに身体も順応してきたようで、最近は苦労していません。

とにかく深酒はしないこと。沢山飲んでも、そこから水を飲んで寝る前に回復時間が十分に取れると睡眠の質は下がらず、狙っていた睡眠スコア80キープ出来たりする日もあります。

さて、今晩は・・80以上のスコアをちゃんと出せるかな。
睡眠の質を制するものは、体調管理を制す。

人生初ナイター競馬

最近、初めてという単語に弱い気がします。いや、前からか。

先日、府中の東京競馬場で人生初競馬にデビューしました。その勢いを借りて・・という訳ではありませんが、この度は大井競馬場にて人生初のナイター競馬へのデビュー企画です。

ナイターと言っても夕方はまだ明るい感じで、ここから段々と夜のとばりが下りてきます。

ほぉ、これは綺麗。

ナイターといえばスキー場しか知らなかった自分が、まさか競馬場でナイターを感じるとは。ナイターゴルフもそういえばあるそうですが、ボールを無くす場面しか想像出来ません。

今回は5レースで馬券を買って、3レースで何らか当たりはあったものの、トータル5,000円使って1,700円の払い戻しのみ。3,300円かけて3時間ほど楽しんだ計算です。前回は6,000円使って4,000円が戻って来たことに比べると当たりはイマイチでしたが、楽しかったことだけで十分か。

TOKYO CITY KEIBA、略してTCKというのがちょっとおかしい。まだ、中央競馬と地方競馬の区別もついていない初心者です。

何回も羽田と浜松町の間を往復したはずの東京モノレールから眺めてきた大井競馬場に自ら行ってみようと思わなかった理由は何故だろうな・・と少し不思議に感じました。

何事も食わず嫌いはいけない、のかもしれない。(だからと言ってパチンコや麻雀に今頃から手を出す予定はないけど)

そろそろ踊りたい(アマプロ戦にエントリー)

そろそろ踊りたい。(前回→週一ダンサー

中年の習い事としての社交ダンス。教室主催のホテルパーティーには昨年末→初の自費デビュー。(これまでお手伝いする立場だったので、純粋なる生徒として初参加)

2023年も年末のパーティーには出ようと思ってますが、それだけだと毎週1回の練習の目標としては少々先だよなぁ・・と思っており、一部の生徒の皆さんが最近励みにし始めたというアマプロ戦というものに体験参加してみようかな、と。

まさか、また競技会(っぽいもの)に出る日が来るとはな、、と感じつつ。

ダンスの競技会を、観る専門で楽しむ層も増やすのと同時に、これまで発表会だけを目標に練習してきた生徒の皆さんに競技会的な雰囲気も味わってもらう、というのは面白いアプローチと思います。(皆が皆、競技志向でもないのは分かってますが)

色々と運営する側も、生徒をお誘いして出場するプロ側も試行錯誤でやってるという話は漏れ伝わってきますが・・まずは百聞は一見に如かず、の精神で、現場を潜入取材してきます。

9月まで、練習の時間もあまりないですが。。頑張ってみます。

まさか八幡太郎義家〜家族のルーツを探る③

母方のルーツは武士、でした。

お墓を確認した曽祖父の名前が、宮城図書館の歴史資料の幾つかに名前があることをもって、仙台藩士として実在したことも確認出来たのが前回までの私的調査。

幾つかの資料の中で、私本仙台藩士辞典や伊達世臣家譜、仙台藩家臣録などの資料から、本家の出自、その後の分家の成り立ちがおおよそ分かりました。

記述によると、仙台藩家臣となる前、三河国上野村に住んだ祖先の義有を基点に、14代後の景明が豊臣家に仕えて1,700石を給され、元和元年に伊達政宗に召し抱えられ400石を禄し、後に600石余になった・・のだとか。(よくもまぁ、ご存じで)

その景明の孫にあたる景俊が藩内で活躍したことで本家の地位も上がり、前後して4つの分家が生まれた経緯が書かれてます。確かに苔むした墓と墓誌から読み取れた中でも、寛永16年に亡くなった景俊の墓誌が一番イケイケな感じの記述でした。

本家が600石、分家は200石、150石、100石。どのような系図が明治維新を迎えた曽祖父まで伸びてるか今後調べたいところ。

しかし、さらに祖先まで遡ると、上野村に住んだ義有は足利尊氏の六男で、足利尊氏から5代前に遡ると源義家、通称八幡太郎義家・・となると、少々この系図が眉唾モノな気がしてきます。

源義家って・・平安時代後期の方。これって、皆が清和源氏の子孫だと主張した流行りの流れまんまじゃないかと。

なんとなく信用出来るのは曽祖父と同じ場所に墓誌がある景俊あたりからかな、、という気がします。それでも1600年代、江戸時代初期の武士ですから、想像以上に家族の歴史を遡れたことには驚きました。

■ 48. 家族のルーツを探る

今回は母方でしたので、次は父方もですが、今しばらくはサハリンの地に赴くのは難しそう。