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人生初ナイター競馬

最近、初めてという単語に弱い気がします。いや、前からか。

先日、府中の東京競馬場で人生初競馬にデビューしました。その勢いを借りて・・という訳ではありませんが、この度は大井競馬場にて人生初のナイター競馬へのデビュー企画です。

ナイターと言っても夕方はまだ明るい感じで、ここから段々と夜のとばりが下りてきます。

ほぉ、これは綺麗。

ナイターといえばスキー場しか知らなかった自分が、まさか競馬場でナイターを感じるとは。ナイターゴルフもそういえばあるそうですが、ボールを無くす場面しか想像出来ません。

今回は5レースで馬券を買って、3レースで何らか当たりはあったものの、トータル5,000円使って1,700円の払い戻しのみ。3,300円かけて3時間ほど楽しんだ計算です。前回は6,000円使って4,000円が戻って来たことに比べると当たりはイマイチでしたが、楽しかったことだけで十分か。

TOKYO CITY KEIBA、略してTCKというのがちょっとおかしい。まだ、中央競馬と地方競馬の区別もついていない初心者です。

何回も羽田と浜松町の間を往復したはずの東京モノレールから眺めてきた大井競馬場に自ら行ってみようと思わなかった理由は何故だろうな・・と少し不思議に感じました。

何事も食わず嫌いはいけない、のかもしれない。(だからと言ってパチンコや麻雀に今頃から手を出す予定はないけど)

そろそろ踊りたい(アマプロ戦にエントリー)

そろそろ踊りたい。(前回→週一ダンサー

中年の習い事としての社交ダンス。教室主催のホテルパーティーには昨年末→初の自費デビュー。(これまでお手伝いする立場だったので、純粋なる生徒として初参加)

2023年も年末のパーティーには出ようと思ってますが、それだけだと毎週1回の練習の目標としては少々先だよなぁ・・と思っており、一部の生徒の皆さんが最近励みにし始めたというアマプロ戦というものに体験参加してみようかな、と。

まさか、また競技会(っぽいもの)に出る日が来るとはな、、と感じつつ。

ダンスの競技会を、観る専門で楽しむ層も増やすのと同時に、これまで発表会だけを目標に練習してきた生徒の皆さんに競技会的な雰囲気も味わってもらう、というのは面白いアプローチと思います。(皆が皆、競技志向でもないのは分かってますが)

色々と運営する側も、生徒をお誘いして出場するプロ側も試行錯誤でやってるという話は漏れ伝わってきますが・・まずは百聞は一見に如かず、の精神で、現場を潜入取材してきます。

9月まで、練習の時間もあまりないですが。。頑張ってみます。

まさか八幡太郎義家〜家族のルーツを探る③

母方のルーツは武士、でした。

お墓を確認した曽祖父の名前が、宮城図書館の歴史資料の幾つかに名前があることをもって、仙台藩士として実在したことも確認出来たのが前回までの私的調査。

幾つかの資料の中で、私本仙台藩士辞典や伊達世臣家譜、仙台藩家臣録などの資料から、本家の出自、その後の分家の成り立ちがおおよそ分かりました。

記述によると、仙台藩家臣となる前、三河国上野村に住んだ祖先の義有を基点に、14代後の景明が豊臣家に仕えて1,700石を給され、元和元年に伊達政宗に召し抱えられ400石を禄し、後に600石余になった・・のだとか。(よくもまぁ、ご存じで)

その景明の孫にあたる景俊が藩内で活躍したことで本家の地位も上がり、前後して4つの分家が生まれた経緯が書かれてます。確かに苔むした墓と墓誌から読み取れた中でも、寛永16年に亡くなった景俊の墓誌が一番イケイケな感じの記述でした。

本家が600石、分家は200石、150石、100石。どのような系図が明治維新を迎えた曽祖父まで伸びてるか今後調べたいところ。

しかし、さらに祖先まで遡ると、上野村に住んだ義有は足利尊氏の六男で、足利尊氏から5代前に遡ると源義家、通称八幡太郎義家・・となると、少々この系図が眉唾モノな気がしてきます。

源義家って・・平安時代後期の方。これって、皆が清和源氏の子孫だと主張した流行りの流れまんまじゃないかと。

なんとなく信用出来るのは曽祖父と同じ場所に墓誌がある景俊あたりからかな、、という気がします。それでも1600年代、江戸時代初期の武士ですから、想像以上に家族の歴史を遡れたことには驚きました。

■ 48. 家族のルーツを探る

今回は母方でしたので、次は父方もですが、今しばらくはサハリンの地に赴くのは難しそう。

仙台藩士の曽祖父〜家族のルーツを探る②

母方のルーツは武士、らしい。

家族のルーツを探る旅をしよう、と北海道に暮らす母と共に仙台で曽祖父が眠る先祖代々の墓まで辿り着いたのが前回。(→家族のルーツを探る①

その後、祖父の兄に連なる縁戚の方にも母が60年ぶりにご挨拶できたのですが、あいにく仙台藩士としての詳しい情報についてはご存知なく、調査2日目は郷土資料にあたるために宮城県立図書館を訪問。(調べごとのために図書館を訪問するなんてレア体験)

向かったのは県図書館内のみやぎ資料室。仙台藩士に関する蔵書があるそうで、ここにヒントがあるかもしれない、、と思い。すると、親切な司書の方々に丁寧にガイドを頂き、沢山の関連資料が出てきました、心から感謝です。

同じようなことを調べたい方は沢山いるようで、明治維新の際に仙台藩士として資料に名前がある方は索引カードにもなっており資料を逆引きもできるようになっておりました。(便利!)

結論として、この日だけでは、曽祖父の正確な家格や家系の系譜については突き止めきれず。

仙台藩内に本家と分家が4つあることまで特定出来たのですが、曽祖父がどの家の当主だったかは参照した資料の範囲では判然とせずでした。本家の当主の方は同名ながら漢字が違っており、おそらく曽祖父は分家筋だったのだと思います。

意外だったのは、明治維新後に武士を辞め曽祖父が農業をやろうとしたと読み取れる資料があったこと。警察に奉職して、最後は部下の不始末の責任をとって切腹した・・と家には伝わっているのですが、この明治の空白時期を埋めること、どの分家の当主だったのかを今後は調べたいところ。

家族のルーツを探る旅、仙台には再訪確定です。

仙台藩士の曽祖父〜家族のルーツを探る①

母方のルーツは武士、らしい。

この家族のルーツを探る旅をしよう、という母との約束を今回ようやく果たせました。約束したのは、2017年のこと。弟の結婚披露宴で母方の叔父叔母と久しぶりにご一緒した際に。(→母方のルーツは武士

あれから6年。あの時ご一緒していた叔父の一人が亡くなり、これはもう行くしかない・・と。母も69歳が75歳に。

一緒に東京から仙台に新幹線で向かいながら、まずは母も行ったことがない・・という曽祖父のお墓を目指すことに。(母にとっては祖父の墓)母は60年前の中学生の頃に自分の父母と仙台を訪れているのですが、その時はお墓を訪れていなかったとか。

お寺の名前は東昌寺。Wikiによると、臨済宗のお寺で、仙台の禅寺北山五山の一つだとか。伊達氏代々の保護を受けていたというのが仙台藩につながる感じがします。ドキドキ。。

想像以上に立派なお寺。

しかし、手前にも奥にも広がる広大な墓地エリアを一望して、これは自分達で適当に探すのは無理と真っ直ぐ社務所へ。来訪の目的をお伝えすると、ご住職が親切にも、あっちか、こっちか・・と呟きながら、ご案内を頂けることに。(ありがたや)

最初に辿り着いたお墓は、縁戚の方とはお名前の漢字が違い、墓石も随分と新しい気がしたので、もう一つの方へ。(そちらも結局は親戚でしたが)

こ、これだ・・・。

お墓の横に掘られた文字を読み解くと曽祖父の名前、影定の文字が浮かび上がりました。さらに丁寧に彫られた情報を読み進めていくと、影定の妻(曽祖母)、その子供達(母にとっては叔父叔母にあたる皆さん)・・と、この先祖代々のお墓に入られた母方の親戚のお名前と亡くなられた日時が明らかに。

さらに周囲にある古い墓石や墓誌も読み解いていくと、明治、大正どころか、安政5年=1858年・・、享保13年=1728年、極め付けが寛永16年=1639年のご先祖様の墓誌まで。

 

確かに、曽祖父は存在していて武士でした。お墓って・・凄い。祖先から現代の子孫への伝言板にもなってる。